馬鹿話

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漢字の都々逸「梅」




♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 粋な小唄を 三味線で

♪ 白梅紅梅 梅見の季節 梅酒を呑んで ひと眠り

梅の字は「バイ=@うめA果樹の名BつゆCさみだれ」

梅干、梅天、梅花酒、梅雨、梅毒、梅林、梅酒、梅酢、梅園、入梅、
紅梅、白梅 など

江戸時代の流行歌 端唄「梅は咲いたか」

梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ャなよなよ風次第
山吹や浮気で 色ばっかり
しょんがいな
浅蜊(あさり)とれたか 蛤(はまぐり)ャまだかいな
鮑(あわび)くよくよ片想い
さざえは悋気(りんき)で角(つの)ばっかり
しょんがいな
柳橋から小船を急がせ
舟はゆらゆら波しだい
舟から上がって土手八丁
吉原へご案内
*********************
梅 木が形を表し、毎が音を示す形成文字。
梅は大木をさすといい、毎は、子孫を残すという意味がある。




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古事記「淤能碁呂嶋」と隠岐の後島の関係



「淤能碁呂嶋」と隠岐の後島の関係

古事記巻頭で
 「ここに、天(あま)つ神のもろもろの命もちて、伊耶那岐の命・伊耶那美の命の二柱の神に、「このただよえる国を固め成せ」と詔らし、天の沼矛を賜ひて、言衣(コトヨ)さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画(カ)かせば、塩こをろこをろに画き鳴らして、引き上げたまう時に、その矛の末より垂(シタタ)り落つる塩の累(カサナ)り積もれる、嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)ぞ。」
その嶋に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。

現在各地で淤能碁呂嶋だとするのは下記の通り
*沼島 淡路南海島
*友が島の沖の島
*絵島 淡路
*十神山 島根県 安来


私の推測では「淤能碁呂嶋」は隠岐の後島ではないかと思っている。
古事記の巻頭を賑やいでいる神々は出雲地方に集中していることで、出雲は砂鉄の蹈鞴製鉄法の歴史が古く、鉄器による武器・武具の製法が優れていることになり、軍事的に優位に展開でき、渡来人の技術を吸収して徒事としては強力な武具ができ、統一国家形成に役立てたとおもわれる。
古事記が編纂されたのは畿内に統一国家が安定したことであり、古事記の内でも大国の主が譲歩したとされている。
伊耶那岐・伊耶那美が天の御柱を立てたとされる物が隠岐の嶋後嶋にローソク嶋があり、この嶋の巨岩が御柱ではと?
また、瀬戸内を淤能碁呂嶋とすると、伊耶那美の黄泉の国は島根県の比婆山では距離的に説明できかねる部分がある。

伊耶那岐・伊耶那美の天地創世
伊耶那美の黄泉の国
大国主の国造り
須佐男と蛇
ウサギとワニ
アマテラスと天岩戸
これらの物語から推測されるのは淤能碁呂嶋は隠岐の後嶋と考える所以である。

終章

古事記を何度か読んで、巻頭の一番重要な部分の所在が現在でも?マークだそうなので、別の角度から「淤能碁呂嶋」を推理することになった、信憑性は勿論疑問であるが、こんな馬鹿な事を考えるのが性分なのでどうしようもない。

          
参考文献
「古事記」 西村一民 校注 新潮社
「漢和辞典」 





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ちょいと怖い「黄泉の国の話

ちょいと怖い「黄泉の国の話」

古事記には死人の腐乱した残酷な話が挿入されています〜〜

二神がいろいろな神を創ってゆきますが、伊耶那美が火之神を生んだ後亡くなり、比婆山に葬ります。
最愛の妻を死なせた伊耶那岐が黄泉の国へ出迎えにいきます。
***************************
古事記 上の巻き
伊耶那岐、黄泉の国訪問のくだり
 ここに、その妹伊耶那美(イザナミ)の命を相見むとおもほし、黄泉つ国に追いひ往でましき。しかして、殿のさし戸より出で向へたまひし時に、伊耶那岐(イザナギ)の命語らひて詔らししく、
 「愛しきあがなに妹の命。あとなと作れる国、いまだ作り竟へず。
 かれ、還るべし」
 しかして、伊耶那美の命の答へ白ししく、
 「悔しかも、速くは来まさずて。あは黄泉つ戸喫(ヘグイ)しつ。
しかれども、愛しきあがなせの命。入り来ませる事恐し。かれ還らむとおもふを、しまらく黄泉つ神と相論らはむ。あをな視たまひそ」と、かく白して、その殿の内に還り入る間、いと久しくして待ちかねたまひき。
かれ、左の御みづらに刺させるゆつつま櫛の男柱をひとっとりかきて、一つ火燭して入り見たまふ時に、蛆(ウジ)たかれころろきて、頭(カシラ)には大雷(オオイカズチ)居り、胸には火(ホ)の雷(イカズチ)居り、腹には黒雷(クロイカヅチ)居り陰(ホト)には析雷(サクイカヅチ)居り、左の手には若雷(ワカイカヅチ)居り、右の手には土雷(ツチイカヅチ)居り、左の足には鳴雷(ナルイカヅチ)居り、右の足には伏雷(フスイカヅチ)居り、井せて八くさの雷神成り居りき。
ここに、伊耶那岐の命見畏みて逃げ還ります時に、その妹伊耶那美の命
  「あに辱見せつ」
と言ひて、すなはち予母都志許売(ヨモシコメ)を遣はして追はしめき。しかして、
黄泉の国
伊耶那岐の命、黒みかづらを取りて投げ棄つるすなはち蒲(エビカズラ)の子生りき。
これを拾い食う間に逃げ行す。

古事記に人の死を取り上げ、黄泉の国の死者の腐乱状態をなぜ描写したのであろうか、人の死と直面し死者のあり得ない姿を通してあきらめを〜〜
*************************
参考文献
「古事記」   西村一民 校注 新潮社



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ちょっとおもしろい古事記の国造りの順


ちょっとおもしろい古事記国造りの順

古事記の国造りのくだりの、伊耶那岐の命(イザナギノミコト)と伊耶那美の命(イザナミノミコト)と島を作る順番は出雲をもととして、各地を統一した順位が示されているのではなかろうか?その順位とは、先ず、淡道之穂之挟別の嶋(淡路島)→伊予之二名之嶋(愛媛)→讃岐の国(香川)→粟の国(徳島)→土佐の国(高知)→筑紫の国(福岡)→豊国(長崎)肥の国(熊本)→日向(宮崎)→熊曾(熊本)→伊岐(壱岐)→津嶋(対島→)佐渡の嶋(佐渡)・・・・ を造ったのであるがこれが、この島造りの記載は、畿内統一の道順を示しているのではないかと思われる。
このように、統一国家を成立過程で出雲の存在は無視できないのである。
 


伊耶那岐の命と伊耶那美の命が国造りの聖地として、淤能碁呂嶋を定めている。
この島は淡路島や筑紫ではないかと推測されているが、私は淤能碁呂嶋は出雲の隠岐島ではないかと推測している。
根拠としては、前述のように古事記の編纂されたのは、大和朝廷が確立して政治的に安定した頃であり、この書は国家行事として編纂されたものと考えると、ここに記載された人名や地名に重要な意味を持つ。
古事記の初めは須佐之男の命であり、この命は出雲に天降っている。
大和朝廷のスタートは出雲で、その後各地を統一して畿内に大和朝廷を造ったのではないだろうか?
そういうことで、この仮説から思い浮かぶ淤能碁呂嶋は隠岐島の後島ではなかろうか?
発声的にもオノゴロシマ=オキノゴシマとなり、伝承課程でオノゴロシマがオキノゴシマに変ったのではなかろうか?

参考文献
「古事記」   西村一民 校注 新潮社



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ちょっと考える古事記の出発点


ちょっと考える古事記の出発点

古事記上の巻に現われる神は、日本海の出雲地方が出発点となっている。
須佐之男の命が高天の原から追放され出雲の斐伊川の河上の鳥髪山に天降る。ここは砂鉄の産地である。大国主の神はこの須佐之男の命の17世の第6世から生まれたとあり、須佐之男の命が天降てから17代目の子孫とすると相当の年月が経過しているものと思われる。

大陸と日本の交流を漢和辞典で記載されているのを見ると
 
紀元前33年 任那が初めて日本に入貢
西暦57年 倭国王の使いが後漢に来て印綬を受けた
390年  倭が朝鮮を攻め新羅、百済を破った
538年  仏教が百済から日本に伝わる
562年  任那の日本府が滅んだ
587年  蘇我氏が物部氏を滅ぶす
604年  聖徳太子憲法17条を制定
607年  小野妹子が随へ遣随使始る
672年  壬申の乱
701年  大宝律令がなった
712年  古事記を正五位上勲五等太朝臣安萬呂が編纂

 古事記が国本と編纂された直前は政治的に大きな波乱があった時期であり、その中心として聖徳太子の存在が大きかったのではないか。この中でも587年の蘇我氏と物部氏の戦いが大きな戦いであったのではなかろうか?
この戦いによって聖徳太子の政治体制ができあがったと思われる。この問題と古事記の神々が出雲地方に天降り須佐之男の命や大国主の神が活躍した話につながっていくのではなかろうか。
 
ここで、「古代出雲文化について」京都大学名誉教授上田正昭先生の話を引用すると、
”古代の出雲文化は出雲神社を中心に神話の国とイメージされてきた。しかし出雲は単なる神話の国ではなかった。青銅器や古墳の文化においても、抜群の地域であった・・・・と
また、日本列島に居住者した人類は、決して単系の発展課程をたどったのではない。南方系を国神(クニツカミ)、北方系を天神(アマツカミ)と分類して日本神話が形成され、騎馬民族や渡来人が大きな役割をしている・・・・と
 このことは縄文時代の石器時代から弥生時代に移行に移る課程で、砂鉄の生産地である出雲地方が青銅の武器が戦力となり石器を使用する集団を撃破して、各地を統一して行き畿内に勢力を得てったものと思われる。このことが後、大和朝廷の統一国家成立につながった。

 ↑ てつを造るたたら製鉄

そのため、7世紀に入って古事記という国文では出雲地方を国起こしの発祥の地としてとりあげたものと思われる。

参考文献
「古事記」   西村一民 校注 新潮社


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都々逸(どどいつ)は江戸時代の末期に俗曲としてお座敷芸として、三味線を奏でながら唄われてきた。

「都々逸」は、七・七・七・五、調の二十六文字に「男女の恋愛を扱った情歌」として表現することで、いわゆる、艶歌として好まれたものである。

都々逸

馬が前向きゃ 鹿後向いて 行き先迷路 馬鹿政治
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